空海の夢
いかに意識をコントロールできるか
前回、中村元「龍樹」のおかげで『縁起』の理解が進んだ。関係性こそすべてという考え方は、一体感を重視する日本人の性質に影響を与えているのだろう。さて、この勢いで日本の仏教に挑戦してみよう。松岡正剛「空海の夢」である。さあ、如何。
仏教の要訣は、せんじつめればいかに意識をコントロールできるかという点にかかっている。生命は進化して意識をもった。(空海の夢 p23)
東西の『梵我一如』へのアプローチの違い
意識のコントロールとは、世界と自我、この両者の統一をはたすことである。これを仏教以前のインド哲学は『梵我一如』と呼んだ。
梵(ブラフマン)は世界
我(アートマン)は自我
世界の捉え方には色んな枠組みがあるが、これが一番外側のフレームワークなのではないだろうか。その梵と我へのアプローチが、西洋と東洋では大きく違う、と松岡正剛は言う。
西洋は自我を強く確立することで世界をコントロールしようとしてきた。明瞭な自我から梵(世界)との合一である自己実現(梵我一如)に向かうアプローチである。
その一方で東洋の仏教は。
仏教は、それにしてもその「我」が問題だと考えた。「我」を認めたうえで「梵」との合一をはかる困難よりも(中略)「我」そのものを発想してしまう意識の中の特異点をとりはずせないものかと考えた。(同 p23)
仏教は我を強くするのではなく、逆に我をなくす(空にする)ことで梵我一如へ向かうアプローチをとった。
出家、そして大乗仏教
そのアプローチに沿って釈迦が編み出したのはサンガ(宗教団体)に入って「出家」する方法である。自分の意識をコントロールし苦しみから逃れるために、世俗を断ち切る。しかしそれはあまりにも周囲との関係性を失う行為だった。
仏教の歴史にとって、実はこれからが問題だった。いったん国家や社会を切断することによりわざわざ「前意識状況」を手に入れたはずであるにもかかわらず、その前意識の成立条件はあまりにも反生活的にできあがっていたと言うべきだった。(同 p24)
出家しなくても悟りを得られるにはどうすればよいか。そこから大乗仏教が起こる。その先駆者こそ前回ご紹介した龍樹である。
仏教史とは、つねに生命と意識の対立をどのように解消するかという一点をめぐる世界最大の思想史劇なのである。(同p24)
なるほど。そのとおり。ここまでは非常に面白かった。
空海に吹き飛ばされる
しかし、いざ主役の空海に話が及ぶと、途端に訳がわからなくなってしまった。正に馬の耳に念仏である。残念無念。
わからないなりに読み進んだp180までのアンカーを自分のために打ち込んでおく。
・言語の一族、佐伯氏の血
・タオイズムと山伏
・レーゼドラマ「聾瞽指帰」
・編集の先駆者、鄭玄と淡海三船
・長安の師、恵果
・密教の特色は「神秘・象徴・儀礼・総合・活動」そして芸術宗教
ひとまず、ここまで!
少林寺三十六房でいきなり最終房に挑戦し、わけもわからず高僧に弾き飛ばされたリュー・チャーフィーの気持ちにさせられる読書体験であった。
わからないこともまた、読書の楽しみである。いつか再チャレンジしよう。
「『空海の夢』を読む -西洋は我を強め、東洋は我を空じる-」に5件のコメントがあります
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